chronoireのアニメメモ

面白いアニメ全部MIRO

特別編 響け!ユーフォニアム〜アンサンブルコンテスト〜を見た。

議論点:

  • 数年ごしの新作を時期TVアニメーションの前フリにするのは許されるか?
  • 誓いのフィナーレに求められたものとの違い、「特別編」と銘打つことによる逃避
  • 視点を久美子に置いた場合、誓いのフィナーレと何が違う?

気づいた点

  • 久美子の目線?(観察眼の強調)
  • ED前の夜空、星(OR飛行機?)が点滅=久美子と麗奈のペアの関係に暗雲垂れ込めている(c.f. あがた祭の夜空では金星と木星がペアで描かれている→本来この場所にはなかったのになあと監督自ら述べるも後悔しないほど強いモチーフ)
  • 「久美子は窓を開けるの得意だね」あまりにも安直だがそれ以上の意味は?
  • エピローグ?次回アニメのダイジェスト?(右下に©出た後の映像)はキャラクターデザイン変わっている?
  • 川島サファイアと久美子の比較、もしくは今後の布石(あぶれる新入生を気にもとめず求とのデュエットにするサファイア
  • アンサンブルコンテストで「久美子の変化」はある?着眼点は誓いのフィナーレと何が違う?
  • 葉月の成長はある(気がする)
  • つばめ「私でも…オーディションで勝ちたいって思ってもいいのかな」←代弁者?
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『ヤマノススメ Next Summit』のNext Summitが指すところ

 私とヤマノススメとの出会いは確か、2014か15年の高校1年生の時期だったと思う。当時海外暮らしのインドア派だった私は、ヤマノススメで暗に示される陰キャと登山の親和性を感じとり、後日、来日と大学入学を機に趣味でボチボチと山に登るようになった。登山靴やザック、雨具などに(大学生にとっては)馬鹿にならない金額を払い、高尾山や三ツ峠山、富士山、谷川岳赤城山金峰山など、ヤマノススメに登場する山にも登った。結局今では登山はほとんどやめてしまい、雨具(1回しか使わなかった)も売り払ってしまって来年から就職だ、そんなときにこのアニメは放送されることになる。

 私は、クールアニメは終わってから回収するタイプで、ちょうど『ぼっち・ざ・ろっく!』を見終わりその映像の面白さに舌鼓を打っていた。そして次に再生し始めたのが『ヤマノススメ Next Summit』だったのだが、開始1分で異常を感じ、OPが流れる頃には何かとんでもないことが起こったのだと知った。その期待は最終話まで裏切られることはなく、終盤レビューで提出したら迷惑になりそうな量の感想文を書こうという熱量になった。

 このアニメの素晴らしさは、当たり前だが次の2つによるものだと思う。1つは圧倒的な映像美、作画、演出で、もう1つは1期~3期を包括した上でそこから帰結される成長物語の完成度だ。この2つは互いに補完しあっており、前者があることで後者の機微な演出が可能になり、後者があるおかげで前者は意味のある映像美になっている。

 『ヤマノススメ Next Summit』の映像が素晴らしいことに異論を唱える人はいないと思う。背景には実写を加工したリアル調のものを使い、つりあいが取れるようなリアル路線の、しかしそれでいて各話ごとに趣向の異なる作画が主に用いられている。素人考えではあるが、この作画と背景がどちらか片方だけだったらかなり浮いていたのではないだろうか。この技術と情熱と愛情の結晶はOPを見るだけでも分かる。

 OPでのタイトルが出たあとのクラスメイトと歩いているあおいのカットだけでも良いのに、その次のジャングルジムの異常カットで空気になるレベルである。このジャングルジムのカットを見た時目ん玉が飛び出るかと思った。普通ならこんな意味不明なカメラアングルを使うことでわざわざ作画を難しくしないだろう。あおいだけじゃなく隣りにいるここなちゃんもちゃんと動いているし仰天だ。だが、ジャングルジムというのはあおいにとって重要なモチーフであり(子供の頃ジャングルジムから落ちて高所恐怖症になったという過去あり。OPで落ちつつも笑って立ち直す姿は明らかに彼女の成長を意味している)、それを効果的に描いてやるという情熱があってこその変態カットだ。その後、回想(ひなたがいなくなって陰キャ化するあおい、車や児童と逆向きに独り背中を向けて進んでいくところとか良い)を挟んでレイアウトの上手いカットを2つ挟んで今度はひなたの紹介。お風呂から出てくるカット、上手いけど意味がわからないw。次の回想はひなたとあおいの約束(おもいでプレゼント参照)についてで、この二人の立ち位置の違いを示しているのかもしれない。2期でもあったお約束の「ひなたがドジしてあおいがとばっちりを食らう」シーンのあとに、下から上へ歩くあおいを舐めるようなカメラワークを使い、ダイナミックな引きでサビに入る。ここからの映像はまさに驚心動魄で、このアニメを象徴している部分でもある。それぞれに送り出してくれる人がいて、そこから力をもらい違う場所から出発して富士登山へと集まっていく、つまりあおいとひなた2人の話だけではなく、5人でもなく、その周りまで描きたいというテーマ設定を感じられる。そしてこの作画がバケモンなんだよなあ。特に初めのほのかを送り出すほのか兄の主観カットは車の中からのものになっており、これは大変難しいと思われる(押井守が言っていた)。そして5人並んで攻殻立ち。この次の、5人を除いたキャクターたちの映像も見事で、先述した周りの人間も描きたいという意味のある映像美になっている。ここでもほのか兄のカットは見事で、車の中からのカメラで中にいる人と外にいる人を動かすという難しい作画をやっている。というかアニメ本編でも徹頭徹尾ちゃんと奥行きを感じられる画面になっていて素晴らしいと言わざるをえない。最後の締めはこけるあおいをひなたが助けるところであるが、これは、それでもこのアニメはあおいとひなたの物語なんだよというのを言っているかのようだ。何回でも見れますね。

 EDは特殊回を除いて全話が吉成鋼の一人アニメーションという意味がよく分からないことになっている。ヤマノススメってこんな豪華なアニメだっけ?まあもともと出来は良いんだけどさ。これも、1つのEDで一貫してストーリーを成しており1~3期の内容の補完に用いられていることは、先述した「意味のある映像美」というワードに繋がってくる。

 この、「意味のある映像美」という言葉は特にこのアニメにおいては的を射た表現だと思っている。『ヤマノススメ Next Summit』では映像と物語が相互補完していると述べた通り、映像面だけの面白さ(ぼざろとか。すみません)に留まらないところがこのアニメの素晴らしさである。きめ細かい作画と演出によって可能になった機微な感情変化の描写がこのアニメにおいては必要不可欠だったが、それをクリアしたことで2人の成長を描くマスターピースになった。

 ヤマノススメは登山をモチーフにした作品だ。そして、その物語自体もメタ的に登山そのものである。1~2期の段階ではあおいとひなたはおよそ健常な性格や考えをしない(度々オタクにバカにされている)。しかし2期後半や3期、4期を経て、山を登っていくように少しずつ彼女らの性格や互いに対する意識は変わっていく。ここで劇的な変化を伴わないのが重要な点であり、それでいて変化を感じさせるのが匠の技だと思う。4期ではこの変化を表現するためにいくつものモチーフを再利用した。例えばOPではジャングルジムもそうだが、金剛杖と朝顔(あおいが富士登山失敗で持ち帰った金剛杖をあおいママが庭に立て朝顔の支柱にして育てている描写が過去にある)は、途中まで焼印がついた金剛杖を朝顔(母親ひいては周りの人間に助けられながら登るあおいか)が登っていって花咲くというような使われ方をしている。

 

ここからはアニメを1話ずつ振り返っていきたいと思う。

 1話~4話は初めに新規ショートストーリーを挟んだ総集編になっている。1話冒頭ではあおいの中学時代の陰キャっぷりを描いている。まず図書館でのあおいの歩き方の作画を見ただけでも上手いってわかりますよね。この時点では、あおいはひなたとの約束(というかひなたそのもの)をすっかり忘れているのだが、ひなたはずっと覚えているという非対称性も存在する。あおい、お前さあ…1話EDは秋の天覧山に登るあおいとひなた。2話は冒頭から、体育祭でビリにならない程度に適当に走るというあおいの性格が描かれている。借り物競争のお題の箱に手を突っ込むひなたでおおとなって、そこからのひなたがあおいを見つけて二人の間から音がなくなり(これをやるためにわざわざ天国と地獄流してそう)、あおいの方にまっすぐ走っていくひなたの主観カット。映像が良すぎる。そして見せる「ともだち」の文字。🤓☝「百合ですねえ」。ビリながらも楽しく走っていく2人の姿を見た視聴者は、1位になれそうにないから不機嫌に走る冒頭のあおいを思い出すのであった(完)。2話EDはかえでとゆうかが描かれている(なにげにこのED映像けっこう好き。笑える描写多い上に、オレンジジュース間接キスで飲み合うとかほんとに仲が良いんだなってのがよく分かり、2人が同時に登場する1~3期の補完になっている)。3話のショートストーリーは愛宕山に登るあおいとひなた。帰りの電車でひなたが定期をカバンにしまう描写を入れるとかいう作画の贅沢ぶり。その後、電車越しにフリーズしたあおいだけが窓から見える(現実にはこうはならない)絵コンテはハマっている。4話は富士急ハイランドに行くあおい達3人のお話。余談ですが私はジェットコースターの上っている時間が本当に嫌いなんですよね。4話EDはほのかとここな(とほのか兄)。可愛すぎるだろこの天使!!!

 さて、1~2期では、あおいは大切な親友の約束どころか存在すら忘れるという天性のクズっぷりを存分に発揮しており、何事も自分第一という、井口裕香の汚い声に絶妙に一致するパーソナリティを有している。対してひなたは、あおいに対する感情はありつつも空回りが絶えず、他人を思いやる方法が歪んでいる。これは、自分から三ツ峠山に誘いつつもバテたあおいを置いて先に進んだり、富士山でかえでさんにあおいを残して頂上に向かい、それを正当化するなどの行為からも分かる。ひなたはその後あおいを谷川岳に引っ張っていったりするが、あおいはその谷川岳で、一人で来ている女の子をナンパするという明らかな躁状態になったりなど(ほのかとひなたたち、どちらからもはた迷惑な話だ。勝手に声かけてついていって、自分とペースを合わせてくれないと「あの子空気読めない人~?」、さすが自分第一)、2期の時点ではまだちぐはぐである。ここでのあおいとひなたの「約束が果たされることで関係が変わってしまうのではないか」という不安は4期のクラス替えを怖がるあおいにも共通している。実際、2人の関係は変わっているが、それは約束が果たされたという事象で起きた急激な変化などではなく、もっと時間をかけた変化なのだ。

 3期では別々の予定で群馬に行くあおいとひなたに軋轢が生じることから物語が始まる。ひなたの意地の張り方は愛おしくもあるが、あおいの無神経さは人を苛つかせる。ひなたの「いつも一緒にいなきゃいけないわけでもないし」という言葉は裏を返せばいつも一緒にいたいという願望にほかならない。しかしながら、そこであおいが「だったら私が残ります」という言葉を口に出せたのは、2期ラストのほのかとのやり取りで気づきを得たからだろう(多分…決定的な描写はなかった気がする…気まぐれかもしれん…)。ひなたはそれを聞き驚き、その言葉で富士山でのことを思い出したはずだ。このときのひなたの「あおいが私から離れてしまうんじゃないか」という不安は関係性の変化に対する恐怖であり、あおいが感じていたものと同じである。それをあおいが諭すのだが、4期ではひなたがあおいにそれをすることになる。3期本編でこの後に流れる『てっぺん目指し隊』は必聴だ。その後、結局ひなたの荷物はかえでさんが担いているのは笑ってしまうがw。聖人か。このように、3期はあおいとひなたの関係性を深く絶妙に掘り下げたシーズンであったため、4期制作決定を聞いた私は期待と不安を同時に抱くことになった。

 5話から、いわば4期の本編が始まることになる。OP直後から、髪をいじるあおいやこはるの煽りのカット、こはるの性格を表すような独特な歩き、それらを支える上手いレイアウトと目が離せない。このこはるという人物は原作では3期らへんで登場するのだが、なぜか存在を抹消されていたのだ。4期で持ち出してきたのはやはり周りの人物にも焦点を当てていていくというテーマのためだろうか。食事シーンの長回しカットも微妙な動きの連続で飽きさせない。その後はあおいや部員たちが走る豪華な作画が続く。橋の下をくぐるところとかは、背景すら作画でやっている。このパートは、人物の動き自体はリアル路線だが、顔は色々と変わりひょうきんでもある(山本裕介絵コンテ演出だからなのかは分からないけど)。放課後、校門で待っているひなた、多分あおいの「一人でも大丈夫だよ~」から何かを感じたのだろう。それが分からないあおいと温かい笑顔で見守るかえでさんw。

 5話Bパートは主にあおいママとのエピソードになる。なんか背景が心なしかより実写っぽい気がする。しかし、この本編のほのぼの感に騙されてボケーっとしているとEDで大変なことになる。5話EDはあおいママにフォーカスした内容になっている。2期の富士登山に失敗したあおいの帰宅を真剣な眼差しで待つママの画から始まり、意気消沈したあおいを介抱し、気遣い、気持ちを紛らわせようと必死に努力するという、作品では描かれていなかったあおいママの行動とパーソナリティの補完になっている。正直、この描写があるか無いかではかなり違い、2期のママは少しうるさくあおいの登山に口を挟む、やや過保護気味な母親として描かれているが、もちろんそれは娘のことが愛おしくて心配であるからだ、という当たり前のことを我々に気づかせてくれる。そして再びひなたと仲を戻したあおいを見て、自分の過去を思い出したママは旧友(だろう)に久しぶりに電話をするのだ。娘や夫と遊び楽しそうにするあおいママ、過去のアルバムをあおいに見せ、あおいママの過去から娘を通して現在につながっていることを我々に見せてくれる。これも当たり前だが、あおいの一番そばにずっと居続けた存在はあおいママなのだ、あまり描かれないので視聴者は忘れがちだが。誰よりもあおいのことを分かって愛している母と娘のつながりを1分半のEDとは思えない濃密さで描いており、特に2期をリアタイした私などの人間は嗚咽を出して泣いてしまった。こんなものをEDで消費していいのかという気持ちはある。

 6話Aパートは初っ端から独特なタッチの画で始まる(キャラの塗りとかのっぺりした感じ)。この回はキャラデザの松尾祐輔作画監督をやっているためか?ここのLINEの使い方だが、画面に書かれた文字をその登場人物が読み上げない(ゆるキャン△やぼざろ方式ではない)のが、このアニメのスタンスを表している(7話Bパートも同様)。あおいがひかりさんの絡みを割りと嫌がっているのリアルで苦笑。ダム湖でカヌーを漕ぐ際の背景はあまりにも豪華である。俯瞰からカメラが移動しており、ドローンの撮影映像に使っている加工を自慢するかのようだ。背景にすらも通常ではない奥行きをもたせている。特に水面の光の反射が素晴らしい、これどうやっているんだろう?太陽光の角度とかで質感変わっているし実写だろうけど、それにカヌーの軌跡に合わせた加工しているのすごいね。この話のシャボン玉のモチーフは一時の夢みたいな感じか。ここの魚眼レンズ効果はどういう意図があるんだろう、ひかりの行為がユーモラス(上辺の行動)であることの強調?🤓☝「振られた相手のことを異性だとは明言してないんですねえ」

 7話Aパート、けっこうキャラの顔を崩しているなど独特な作画をしている。ベッドにダイブするひなたはもちろんだが、目がハの字になっているここなちゃんなど、他の回とくらべてちょっと独特かも(ちなみに絵コンテ演出はぼざろの監督)。立て看板などを上手く使ったレイアウトなどが目立ち、あおいたちは日和田山頂に到着する。皆で日の出を待つ情景は2期の御来光とつながり、この1年もたくさん山に登れると良いな(つまりは富士山で朝日をみたいな)と締めくくられる。日の出の瞬間の、太陽が少しずつ顔を出していることを描写する映像はすごく良かった。

 7話Bパートも、ヤマノススメの中でもAパート同様とくに独特な回だ(ちな脚本絵コンテ演出作画監督)。冒頭からセンスが光り、去年の画像を見る→前述した静かなLINEの演出で今年の初詣の話→あおいに電話することになる→携帯を持っているあおいの主観カットに接続、とすらすら繋がっていく。ここで、連絡します→から実際に電話するまでかすみに逡巡があることがポイント。つまりかすみはあおいを誘うことに少しドキドキしており、嫌がられたり断られたりの不安を持っている→関係が発展途上ということでもある。電話の内容のシーンはあおい側からのカットで描かれるが、この時、電話の際のカメラはあおいの首より下のみを映しており、身体の作画だけで間を持たせられる自信を強く感じる。この首なしカットが電話中であるというところも、電話の際は声だけのやりとりであるため不自然に感じづらいという面があるだろう、なかなか考えられている。資本家階級の高校生の制服が異常に高価っぽいのは置いておくとして、(これはこの回に限らないのだが)ただ歩く際の作画ですらも手を少~しだけ動かしているなど高価である。ちなの絵コンテ特有なのかは分からないが、これから先も(電話の首なしカットもそうだったが)、画面を上下左右に切って半分のみを使うという大胆なカットが散見される。ここからは高尾山登山に入るが、普通の服を来た素人と去年1年の間に登山に慣れたあおいの違いをまずは単純な歩きの作画だけで描いており、脱帽する。かすみが辛く登っているときは茶色い斜面を映したカットだが、あおいが荷物を持ち楽になるとカメラが反転して、初めて青空を含む開放感のある景色が背景になる。カットひとつひとつ追っていっても楽しく、例えば「あおいちゃん、急ごう」と言っているときのかすみの脚を映しているカットは脚との距離が近く取られているためいくら進んでも目標に追いつけない焦燥感を感じさせ、その次のかすみの顔をアップにしたカットは被写体深度が浅い(顔の奥とこっち側でピントが合っていない)ため彼女の余裕の無さ=登ることにだけ集中していることを示している(実際にあおいから「かすみさん」と声がかかった瞬間ピントが合うようになる)。自分のペースで大丈夫だよとかすみを諭すあおいだが、彼女自体は後ろからかすみに合わせてやってきており、成長を窺わせる。ここらへんはもう絵コンテと撮影が演出として完璧に機能していて感動してました。かすみが頑張ろうと決意し立ち上がる→高尾山展望台からの開放感のある青空のカットに切り替わるが、普通こんな意味不明な煽りカットを入れないのでなんかすごい。青空だけの画面を入れたかったのだろうか。ここから先の山頂でのやりとりは1期を復習しており、スカイツリーのくだり、お団子、ムササビの人形は全て1期で出てきたモチーフの再利用で、あおいとひなたの成長を描くための固定ポイントである。ここの団子シーンがこのパートで一番分かりやすくはっちゃけてるシーンだと思われる。キャラの顔は著しく崩されているし、動きも漫画的なものになっている。中学のあおいのかすみ目線の回想が入るが、ここもまた巧み。かすみの眼鏡を前からスクリーンにしているため後ろにかすみの目が透けて見えており、これが彼女の感情と重なって動くため回想を淡々ではなくしている。次の写真をいくつか見せるカットはもはや背景が実写そのものだ。「前からあおいちゃんのこと気になっていたんじゃないかな」のシーンでは、望遠レンズを用いて遠くにいることを示しつつも(どちらも奥にあるものとの奥行きがあまり感じられない=望遠レンズになっている=遠くにいる)、ちゃんと目が合って互いに意識を向けていることを表していて面白い。2年のクラス替えで別々になることをあおいが初めて意識することになるシーン、1話序盤のCGを使った映像の逆再生と、みおたちから声がかかり現実に引き戻されるときの撮影効果が合致していて気持ちが良い。「みんなで来ようよ高尾山」のシーンは、1カットそれぞれが一人の顔アップになっているのだが、カットが変わるときに次の人に目線を向けることで、(画面上の)距離が離れ離れになったとしても私たちは一緒だよということを言っているのだ。あ^~いいですねえ。あおいとかすみが「次も一緒のクラスになれると良いね」と会話しているシーンでは注視して見ないとわからないぐらいのトラックアップ(カメラが近づいていっている)があり、2人の心が少し近づいたことを表している(そしてこの願いは後に叶うことになる)。全員の拍手のカットは変態すぎてすごい(賽銭箱にお賽銭を投げ込むカットからあおいのモノローグとともに笑顔を見せるカットまで、が伊礼えりの原画らしい)。実写か?ってぐらい気合の入った線香の煙。そしてBパート冒頭につながって終わる、と圧倒的完成度である。EDはかすみ目線のあおいと彼女たち2人の関係の変化について。実際、かすみは学校で陰キャこじらせていた時期のあおいを知る唯一の人物であり、あおいの成長を描く上では必須のキャラクターでもある。

 8話とちょっと飛ばして9話Bパート。まずAパートとBパートの繋ぎが上手い。このBパートはキャラの線や影の塗りこみが独特に感じる(ひなたの家でひなたママが奮起して立ち上がるシーンなど分かりやすい。そのあともずっと服の皺の見せ方がエグい)。あおいをすごい眼圧で覗き込む魚眼カットをそのまま維持しつつ下に回り込んで煽りカットに持っていったのは結構面白かった。鎌倉の海の場面で、お腹が空いたなあ→出てくる鳩サブレーに対するあおいの「ひなたと同じで気が利くなあ」という感想は、ひなたの(空回りもするが)他人を思いやれる母親譲りの性格をもう一度ここで思い出させる。それを理解できるようになっているのは成長だろうか。9話はAパートではあおい父、Bパートではひなたママという、どちらも今まで登場してこなかったキャラクターとあおいひなたが過ごし色々(立ち止まって休むこととか)考えるというエピソードになっており、OPの際にも語った、このアニメが「あおいとひなたの劇的ではない変化をいろいろな方法を駆使することで丁寧に描くことを目指す物語」であることを表している。ここにおけるいろいろな方法とは、作画や背景、演出、そして今回のように周りの人物を登場させたり、1期や2期の道具を再利用して違いを浮き彫りにしたりである。ここで、2年生になることに思いを馳せるあおいの目の前に天使の梯子があることには注目したい。3期では一緒に見られなかった天使の梯子を、今は並んで目にしているのだ。

 10話、ここなちゃんが掃除会に呼ばれなかったのは登山道具持っていないからですかね???ここで初めてあおいは、クラス替えで今までの関係に(急激な)変化が起きることに不安を抱く。終業式のあと、クラスでロッカーがちゃがちゃやっているところの絵コンテは面白かった。最もこちら側にひなた、最奥にあおいがいるのだが、視聴者からはあおいの目線がひなたに向かっていることが分かる。そして憂鬱そうにうつむいたあおいにかぶさって下からゆりが出てきて、「そうだ!記念写真撮ろう」と空気を変える。こういうのを固定カメラでやるの、好きです。あおいが天覧山はどうかと提案するとカメラは引きになり、あおいの陰キャがやっちゃった感を強調するが、その発言ができる事自体が成長であるようにクラスの皆が反応していく。でも頼られているって自覚すると途端に気張りはじめるの陰キャくさいw。天覧山に着いて、統率の声がなかなかでないあおいをひなたが一押することでこの2人の関係の成長を見せるのがAパートのクライマックスだと思われる。特に、そのあと見ず知らずの人に写真をお願いしに行くなど積極的に振る舞うあおい。しかし、いかんせん分かりやすすぎると思わなくもない。前述したように、繊細な描写で微妙な差異を描き切ることで変化を見せるのがこのアニメの華なので、こんなにわかりやすくしなくても良いのにな…と少し残念だ。ひなたと再び分かれることにあおいは大きな不安を抱き始める(前は名前すら忘れてたくせに!)。クラス分け当日、行きたくないと駄々こねるあおいと、家まで迎えに来るひなた。ひなたは本当にあおいのこと考えてるのにやっぱり自分第一なこの女、本当に成長してるのか?w。かすみが地味にイヤホン共有とかしてるの好き、陰キャは一人だけ。でも助けがあれば入っていけるぐらいにはなってるのかな、しらんけど。ラストの「すぐには無理でもちょっとずつ自分を変えていこう」、まさにこのアニメのテーマですね。10話ED、めちゃくちゃ面白くて好き。漫画にしたら原作より面白いんちゃうの。

 11話は富士登山へ向けたトレーニングとして雲取山に登るあおいのモノローグから始まる。登山ルートを決めるあおい達、弾丸登山はやめようと言うかえでさんだが、原作だと2期の富士登山は弾丸登山(山小屋に止まらない登山)だということを知らないと不自然かもしれない。ルートが決まって新しいザックを買いに行くあおいだが、これは1期の繰り返しだ。1期では可愛さだけで選んだあおいだが、今回はちゃんとひなたの意見に実用的な返しをしている。ウエストベルトってめちゃくちゃ楽なんですよね。Bパートは前回の金剛杖を支柱にした朝顔のカットから始まる。互いに富士登山を楽しみにするあおいとひなた。ここでの「もしものときは私があおいの荷物を持たなきゃだもんね」というセリフは泣ける。言うまでもなく、2期の富士登山で何もしてあげられなかったことと3期であおいに荷物を持たせていることが根底にある。やはりあおいへの心配を隠しきれないが、それでもあおいにできるって信じてると優しい言葉を伝えるあおいママとそれに頷くあおい、5話EDがここにつながる。夜遅くまであおいのための減量に挑戦するひなた(神々の山嶺じゃないんだからさっさと決めなさい)。ここで絶対持っていきたい羊羹はひなたがどんな登山にも持っていっているお気に入りの行動食である。しかし最終的には羊羹は諦めるひなた。ここには、2期の独りよがりで無意味な行動(高山病にかかったあおいに羊羹を押し付けて自分だけスタコラ登る)の反省があるのだろう。出発の朝、あおいは金剛杖を家においていく。これは先の羊羹と同じで、前回役に立たなかったものとの決別、成長の表れである。天気をやたらと心配するあおいを、人生は都合通りいかないと諭すほのか。お前は9話で何を学んだんだよ。登山口で高地順応するあおいたちを2期の外国人が通りかかる。同じアイテムをもう一度登場させるのは、変化がどこか見てほしいからに他ならない。お参りしていくほど一同は真剣だが、2期の最後のように登りきったことで関係が変わることをもはやあおいは恐れてはいない。11話ED、なんて素晴らしいんだろう。一人ひとり一緒に登る人が増えていく、富士登山再チャレンジという大きなクライマックスの前に視聴者は1期~3期を1話ずつ思い出す。そして12話の佳境を迎える。

 12話、あおいの高山病に対する恐怖はピークを迎えていた。だが1年前とは違うと、あおいを勇気づけるのはひなたであった。彼女たちの登山は、上を目指すが下の花にも目を向ける、いつかの登山部とは異なる彼女たちだけの登山だった。しかし、ここなちゃんの豚汁代は出してあげろよ、ひなた。ここまで順調に思われていた富士登山だが、あおいが高山病を発症する。2期では「寝てこなかったんだよね~w」なんて笑っていたひなたが今回はまっさきに異変に気づく。あおいは本七合目の山小屋に宿泊することになった。誰が残るかという話で、食い気味に声を上げたのはひなただった。彼女はあの時、あおいのもとに残らなかったことをずっと後悔していたに違いない、なにせ3期ではひなたのためにあおいが残ってくれたのだから。2期では無視していたひなたの元気づけも、もう自分のためにやってくれているとわかっているからむしろ嬉しいあおい。「山に来ると普段当たり前にあるもののありがたみを感じるよね」というひなたの言葉に「そうだね」と答え目線をむけるあおい、意味は言うまでもない。二人の間にはもう不安などなく、ただ深夜になるのを待つだけだった。「なるようにしかならない」、10話であおいがクラス分けで悩んでいるときに(こいついっつも悩んでんな?)ひなたが言った言葉である。ここの服を着たり、靴紐を結んだりの作画大変そ~。山頂のすぐ手前で休憩を取る2人。行動食(重量の軽い飴)を取り出すひなたに対し、あおいが手渡したのは羊羹だった。ここでのひなたの驚きと喜びが入り混じった表情のトラックアップからの笑い出すひなた、屈指の感動シーンである。あおいの荷物を持つことを考慮して減量したひなただったが、当のあおいは1つ60gの羊羹なんか持ってきていたのだ。これはあおいの肉体面および精神面(羊羹がひなたの好物であることを忘れずに)の成長を描く素晴らしい展開である。「どれだけ追い越されたって凹むことなんて無い、富士山がそこにあって私が諦めない限り絶対に負けることはないんだ」もうおっさんはこんなセリフですら涙出ちゃうんですよね、そんな盤面を4期はずっと構築してきた。目をつむって御来光を待つあおい、何を考えているのだろう。そして、ついに1年を経て、今度は5人で御来光を迎えることになる。外国人の大きな声ももはや不快には感じない。「同じ光でも見る高さがちょっと違うだけで、嬉しかったり、悲しかったり、感じ方がこうも違うんだね」、この光というのが太陽のことだけを指さないのはもうおわかりですよね?「ただ脚を前に出すだけ。一歩ずつ、一歩ずつ」これこそが、あおいが1年間やってきたことなのだ。「私はここに最後のピースを拾いに来たんだ」俺もだよ、あおい…そして、あおいの「未来のあたし、今よりきっと強くなっているって信じてるから」という言葉とともに『スタッカート・デイズ』が流れEDへと移る。最後は、卒業式の日に天覧山で記念写真を撮るあおい達でアニメは終わる。

 

 1話ずつ『ヤマノススメ Next Summit』を振り返ったところで、まとめに入りたいと思う。このアニメは結局のところ、「あおいとひなたの成長物語」なのである。彼女たちは自信の性格や考え方、もちろん肉体でも良いし関係性でも良い、それらを少しずつ変化させていく。12話であおいが語ったように少しずつ少しずつである。これはまさに登山そのもので、ヤマノススメのマクロなテーマがミクロな登山というモチーフと一致する。そしてアニメではその「少しずつ」という点にフォーカスしありとあらゆる手法を用いた。丁寧な作画や背景で機微な感情の揺れ動きを表現し、変わらない存在である周りの人々にもカメラを向けることであおいとひなたの変化を浮き彫りにした。1~3期の存在も存分に活用し、「アイテムのリサイクル」や描ききれなかったエピソードのフォローもあの素晴らしいEDで行った。これらの総合芸術と相成った『ヤマノススメ Next Summit』は、矛盾しているがもはや「あおいとひなたの成長物語」にはとどまらない。それを見せるための技術自体がストーリーのおかげで意味のあるものになっているためである。素晴らしいアニメとはメビウスの輪のようなものなのかもしれない。12話の終わりでは卒業シーンが描かれているものの、原作にはストックが充分あることだしできれば5期を期待したい。もはや不安はありません。

 最後に、『ヤマノススメ Next Summit』のNext Summitとは何を指していたのだろう。富士山?次に登る山?それとも…?ここまで読んでくださった情熱のある方の答えをぜひお聞きしたいです。 では、またいつか “ヤッホー”

ヤマノススメ Next Summitを見た。

素晴らしいという言葉でも足りないぐらいのアニメだった。理由は多分2つ:①圧倒的な映像美、作画 ②1期~3期までを包括してそこから帰結される成長物語の丁寧な描写

 

  • 作画は本当に2022年文句なしのトップだった。OPだけでも分かるが、リアル路線の作画がエグい
  • 背景も、実写を加工しているようなきめ細かいものであるが、これが作画と両立できているのもポイントだと思う。すごい作画・背景の組み合わせ以外だと多分全部浮く
  • OPの映像の素晴らしさ。ジャングルジムのカメラ回転から始まり、サビの車の中からのレイアウトは難しいのにすごいと思う。気の抜けたカットが一切無い(大体なめものついてる)ことは実はすごいことなんですよ!家で送り出してくれる人がいることを示唆するのは良いよね…
  • EDは吉成鋼の一人原画。あまりにも豪華。1~3期までの登場人物や出来事に焦点を当てていて、感慨深く見れた。音楽にも合わさって感動できる。絵自体も豪華な漫画のようにストーリーに従っていて面白い。個人的に好きなのは5話ED(あおいママ)8年越しに2期のときのママの感情が掘り下げられるのは涙を流さずにはいられない。2期ではちょっとうるさそうなお母さんという印象が大きかったばかりに、実は(当たり前だけど)すっごくすっごくあおいのことを見ていて、心配していたんだよ、というところがわかって好きだった。

 

  • 映像面だけにとどまらないのがこのアニメの素晴らしい点だと思う。きめ細かい作画によって可能になった機微な感情の変化の描写がこのアニメをマスターピースにした。
  • 金剛杖・朝顔のモチーフ。少しずつ登る登山というあおいとひなたの成長のメタファ。
  • 2期、ひなたあおいをおいていく。3期、あおいひなたと残る。4期、ひなたあおいと残る!
  • 最終話で金剛杖をおいてきたけど羊羹を持ってきたあおい。あおいの荷物をもつために羊羹をおいてきたひなた。
  • いちいち書いていたらキリがない

すずめの戸締まりを見た。

あらすじ

 

常世のシーン。スズメ、ソウタと出会う。

スズメ、ソウタを追いかけ廃墟に向かう。後戸を開け、要石を抜く。

学校に戻ったスズメは地震に遭い、みみずを目撃する。根本の廃墟に向かう。

ソウタとともに後戸を閉める。怪我の手当に家に戻る。ダイジンと出会い、ソウタは椅子にされる。

ダイジンを追いかけるソウタを追いかけ、船に乗る。船で一泊し、愛媛に着く。

女1と出会う。愛媛の後戸を閉じ、女1の家に泊まる。別れる。

女2と出会い、神戸まで乗せていってもらう。女2のスナックで子供を見たり手伝ったりする。神戸の後戸を閉める。別れる。

新幹線で東京に向かう。ソウタのアパートに行き、セリザワに出会う。東京にみみずが出現し、2つ目の要石が抜ける。自分が要石であることにソウタが気づく(受け入れる)。スズメはソウタをみみずに打ち込む。ダイジンに守られ、みみずの消えた空中から落ちる。

東京の後戸の前でスズメは目覚める。ダイジンを拒否し、ソウタの祖父のもとへ向かう。ソウタの祖父とのやりとりで、昔自分が開けた後戸をもう一度開け、ソウタを開放することを決意する。

セリザワとタマキと再会する。ダイジン、ウダイジンとも共に福島へ向かう。

タマキと衝突する。

道中故障した車にセリザワを残し、タマキと共に実家の後戸に向かう。自らの黒い気持ちを否定することなく、同時に受け入れ互いを理解し合う。

実家の廃墟で昔の日記を見つける。後戸から常世に入る。

自分が要石になっても良いと思う。ダイジンとともにソウタを引き抜く。ソウタは人間に戻る。

ダイジンはスズメの子供になれなかったというが、それでも満足そうに要石に戻る。それを用いてウダイジンとともにみみずを封印する。

常世からソウタと共に戻る。タマキとスズメは、道中お世話になった人に挨拶しながら宮崎に戻る。半年後、スズメはソウタと再会する。

 

雑感

 

・扉・境界線のモチーフは豊富(廃墟に向かう際飛び越える障害物、新幹線の扉、壊れる車のドア、故障しているオープンカーの屋根など)

・特に天気の子から引きずっている要素が多く感じられた。カラオケ、空から落ちる、急な雨などなど(天気の子のBGMすらあった!)

・(パンフレットより)君の名は。は災いを食い止める、天気の子は災いを受け入れる、そしてすずめの戸締まりでは災が日常に張り付いた終末後の世界を描く。成長を描くとパンフレットでは言っていたが、その道中ですずめが自分が要石になってもいい(世界を犠牲にした天気の子とは異なる)と言っている点がより重要だと思っていた。

・ソウタの演技が合っていないように感じた。

・スズメがソウタを追いかけていくのが唐突すぎる。ドキドキする、とスズメが冒険のようなものに憧れを抱いてる示唆はされていたが、それを裏付ける描写は何もなく違和感を感じざるを得なかった。

・物語のあらゆる段階で、釈然としなさを感じていた。君の名は。、天気の子で強かった、流れるような物語運びがぎこちなくなっていた。

・ファンタジー要素が災害というリアルな要素と噛み合っておらず、なんかの悪い冗談みたいだった。

・どうしようもなく糞アニメ文法を感じて笑ってしまったところがあった。(急に椅子が喋る、ウダイジン、謎の巻物などなど)

・結局、ダイジンがソウタを椅子にしたのはスズメとふたりきりでいるためにやった無邪気な気まぐれということか。

・スズメが椅子のソウタに座るシーン、変態すぎる。これを見たオタクが新海誠の精液とか騒ぐと思うと憂鬱になる。

RADWIMPSの主題歌は良かった。

・演出撮影は綺麗ではあったが、君の名は。、天気の子を超えているようには感じられなかった。ある意味地味だ。すぐ動かす、ダイナミックなカメラワークが多かった。

『フラクタル』を見た。

ずばり見どころは、

山本寛自らして「何をやりたかったんだろう?」と言わせたアニメ。「新しいことがやりたい、今のアニメと違うことがやりたい」と発表当時や放映時は強く語っている。(例えばOP映像がアレなのは、その一環だ)しかしそのくせ、設定は既存作品のなぞり、メッセージはありきたり、いかにも迷子に見える。

  • 登場人物の行動原理が伝わっていない:存在しないように描いているのではなく、そこにあるし、だから確固たる行動をしているはずなのだが、それを視聴者に伝えることができていない。そんなことわざとやる理由がない(登場人物が行ったり来たりする、そのベクトル転換に物語の大きな境目が存在しない)。例えば、なぜ3話でフリュネは僧院のババア達のところにやってきたのか?その後はなぜグラニッツと一緒にいるのか?コロコロ向きを変えるのは悪手だ
  • 物語の向かっている先がもやもやしている:これはわざとやっているのだろう。良くも悪くも。個人的には悪い方向に働いたと思う。
  • そもそも世界設定が終わっている。「そもそも話は明確にどこに向かうべきなのか?」というところに本作の勝負があるのならば、なぜこんな陳腐で使い古された設定を選んだのか。宮崎駿リスペクトやりたかっただけだろ
  • それを調理することもできていない。グラニッツらは銃で僧を含めた民間人を殺しまくるが、その直後にこちらがわのキャラが一人死んで皆が悲しむシーンになる。視聴者が感情移入できていない時点でそんなアンバランスなことをやるかね?このような展開の稚拙さは枚挙にいとまがない
  • 僧院が破壊されたからもう再起動はできないねw→じゃあ自足自給を始めようというオチは最低だ。そもそも数千年という時間軸を設定したくせに、その間世界を管理している僧院が簡単なウイルスと爆弾で破壊されるのか。どこまで視聴者を馬鹿だと思っているのか。その後に導き出された答えもロストミレニアムの真の存在意義を真っ向から否定している。僧院を破壊することではなく、真の人間らしさを後世に伝えることだったんだ→でも結局「僧院を破壊して」物語終わってますよね?フラクタルの支配→労働の支配に変わっただけでは?人間らしさは労働?
  • 勝手に自由なんちゃらとか言うな、浅い
  • 一番最後に鳥が一羽飛んでいったのは、全員で一緒に暮らしているから?三羽飛び立たせると、フリュネとネッサがくっついたことを否定するし、二羽だとネッサはどこ?ってなるためか?苦しい
  • 僧院のおばさんのことも良くわからなかったし、そもそも初期のころのフリュネと後半のフリュネの同一性を感じられなかった。僕の感受性の問題ではなく、山本寛が迷子になっていたせいだと思いたい

 

アニメ評論家 氷川竜介氏による「フラクタル」の山本寛監督インタビューまとめ - Togetter

  • ヤマカン「そもそも話は明確にどこかに向かうべきなのか?という所に本作の勝負があるのです。なかなか解ってもらえませんが……。
  • 氷川「物語のあり方、それ自体も語ろうとしているということですか?
  • ヤマカン「そこまで大上段な議論ではないです。でも小説やら、実写映画では、すでにこういう形態の作品はごまんとあると思うんです。そう言えばアニメはほとんどないな。どうしてだろ?というのが『フラクタル』の起点のひとつになっています
  • ヤマカン「まぁ簡単に言えば「狙って」作るのならば真逆の戦術を考えられた訳で。しかしどこかでも言った通り、この作品は「覇権」なる俗語に全力で背を向けることで成り立っています。新しさ、というとどうも語弊があるのですが、そうしないとアニメの未来は切り開かれない、と真剣に考えた末の表現です。
  • 氷川「そうした思いと「フラクタル」ってキーワードは、どんな関連にあるのかなと思いながら見てますが、そこはどうですか?
  • ヤマカン「何かの確たるモデルやスキームありきで世界を語るのではなく、茫洋である意味カオスな世界を生々しく捉えてみよう、という思いがあったのです。それと「フラクタル」という概念が一致しました。
  • ゲイル(彫刻家)は村上隆への最大限のリスペクトらしい。どう見ても今のヤマカンだけどね

神戸守絵コンテ抜粋 2話 (以下全て©フラクタル製作委員会)

ここのクレインが走って向こう行くカット、クレインにつられてカメラのピントが移動している。

こんなに広かったか?←こっちのセリフ

やっぱ平原はいいね

イマジナリーライン越えてるのは昼の星をバックに入れたいから?



神戸守絵コンテ抜粋 8話 (以下全て©フラクタル製作委員会)

対面する親子 距離感を出す

暑苦しさ

このアングル。嫌悪感と冷たい感情がありありと伝わってくる

クレインのことを話すと横からのカットに戻る

この顔

距離感

為す術もない無力感のアングル

対比

この数分間、このいくつかのアングルからのフィックスしか存在しない。絵コンテに自信あり

なめものを配置しないと死んじゃう病

開脚

足は閉ざされ間にネッサがいる

クレインが包帯フリュネを押し留めるシーン、クレインの手前に水槽を置く。フリュネとの温度差

この水槽が動くことでクレインがすこしずつ押し出されていることが分かる。こうしないと、マヌケな絵になる。

クレインとフリュネのやり取りで温度差が緩和し、同じゾーンにやってくる

クレインとフリュネの間を割くキャラクターが文字通り間を割いている

名カット

明日ちゃんのセーラー服を見た

  • この作品における最重要キーワード「処女性
  • 場所(田舎の名門?女子学校)と時間(中学1年生)、2つの特異な設定
  • 強調されていない部位:胸、尻、太もも →非処女性
  • 強調されている部位:足、手、髪、眼、汗、(口) →処女性
  • 中学1年生にしては明らかに成熟した内面 →高校1年ではだめな理由 →処女性?
  • 過度なフェティシズムはファンサービスなのか?
  • 原作付きとは言え、明らかに過剰な『性的』描写≠非処女的な描写
  • 山田尚子の影響受けてる?
  • OPでなぜ明日ちゃんは中心にいないのか?(OPでみんなで眼をつむっているところとか)
  • フェティッシュすぎることによって性欲を超越

 

思いつき

  • カップリングは異性愛規範!?カップリングなど存在しない、明日ちゃんが世界の中心にいるこの作品こそが真の百合か
  • 「時間が止まれば いいのになって思うよ」の歌詞の通り、明日ちゃんが中2ぐらいで事故死して物語が終わるのが最も美しい気がする。そして3組の皆の心の中には処女性を持った明日ちゃんが残り続ける。

トップをねらえ1,2を見た

  • 2期、1話のノノが服を破くシーン、なぜ1の最終話のオマージュだと気づけなかったんだろう
  • 2期、流石にノノの覚醒は熱い
  • ノノが冥王星に行くときの残りの奴らを映すときBGM流すの庵野らしくないなと思った
  • そして5話アバンの「ノノリリ”コ”」やばすぎる=アマカズミ+タカヤノリコ
  • 地球をぶつけるのか!!?慣性どうなってんだ(1ではイナーシャルキャンセラーとかあったけど)
  • エンディングあつすぎる、こういう時代を超えた伏線回収大好きです

 

  • 1は重厚なSF設定と脚本重視、2は見栄えタイミング重視な感じがする
  • 2はエヴァの呪縛にとらわれてそう